2013年10月31日木曜日

水槽は湛え、泉は湧き出す

私の好きな言葉の一つに「水槽は湛え、泉は湧き出す」というウィリアム・ブレイクの言葉があります。

最近、いろんな場面でこの言葉を思い出します。

意味としては、水槽のように枠の決まったものに水を注げば満水にすることはできるけど、蒸発して消えてしまう。逆に自ら水を湧き出す泉になれば、注ぐことをやめても水がなくなることはない、ということかと思います。

これはよく、子どもの教育に例えて言われますね。
子どもの頭に知識を詰め込む教育だと時がたてばいずれ忘れてしまうかもしれないが、アイディアや発想がどんどん湧き出てくるような考える力をつけると、その場での知恵は尽きることがない、というような解釈でしょうか。

とてもわかりやすくて、私の子どもに対する教育にもドストライクな表現だなぁと、常に胸においていました。

子どもの教育としては、私自身、あまり知識を与えてやれていない親だなぁと反省しながらも、子どもがくだらないことを考える機会は設けているつもりです。
接する時間で言ったら、正直少なくて申し訳ないなぁと思いながらも、子どもの「らしさ」や「想定外」の発想を見る機会には、さらに一緒に創造して楽しんでいる親でいることで、子ども自身がパルプンテな発想を生み出すのが「楽しい」と感じてもらえる環境は保っていきたいと思っています。


この考え方、仕事上やいろんな場面で例えてみると、見事にはまることが多いんです。

まず、私がやっている市民活動支援やコンサルのなかでも、与えることを求めている人もいれば、やり方に気付くまで同じ視線で走ってほしいと求める人もいる。
アウトソースってのは大事なんだけど、その水槽、いつか枯れちゃいますよ?って思うこともあるんですよね。
型はできたからとにかくいいと思うことを詰め込む組織と、最善策が湧き出す土壌を作れる組織。
やってることが同じでも、将来的にはすごい差が開いちゃってると思いますよね。

あとこれも教育といえば教育なんですが、先日、米百俵塾というセミナーに参加して、かつて長岡藩がやった教育は、エリート教育で偉人を排出したのではなく、その発想の土壌というか、風土を作った取り組みだったんだなぁと。
史実としては、学識者や各分野の偉人が輩出されているので、徹底的なエリート教育だったように見られている節もあるけれど、そうではなくて、考えて前進する理由や、風土つくりに取り組んだんじゃないかなぁと強く感じました。


もう一つ、これは全然違う捉え方だけど、都会と田舎の比喩の様な見方もできます。
まっすぐに考えるなら、食というテーマ。
私は食の専門家ではないので詳しいことはわからないけど、口に入るものを開発しようとしたら、農場でとれるものじゃなくても、もっと効率よくつくることはできるんだろうなぁと思います。
全人類の腹を水槽に例えるなら、効率よく生産して満たすことは、きっといろいろと可能なんだろうなと。
でもそれにばかり目を向けていると、大切な土壌という泉がつぶされてしまいます。
私は地産地消とか、農業を守るとか、実はあまり興味がわかないんですが、土を守らなきゃいけないって、すごく強く思っています。そのために、農業が継続できる地域でなきゃいけないっていう意味では、農業に興味があるんですがね。
インディアンの格言で、「土地は先祖からの授かりものではなく、子ども達からの預かりもの」という言葉がある。
当時の真意では、住みつく場所の意味で表現したのかもしれないけど、私は、この土地は土壌のことを言っているのかなぁと思っています。


水槽と泉、コンクリートと畑、情報社会とコミュニティ社会。


なんだか田舎で情報にとらわれずに生きることが、ずっと幸せだなぁとつくづく感じてきます。
��私は情報にとらわれまくってる部類ですが。。。)


昔、7つの習慣に出てきた緊急重要マトリクスの図を見たのを思い出すと、何が重要で、何が緊急のことなのか、価値観によって変わってくるとは思いますが、泉と表現できる様々な事柄は、緊急性の低い、最重要なことなんじゃないかなぁと思うわけです。

子どもの教育も、組織運営も、地域の風土づくりも、食の土壌も。

泉が大切だという価値観の世の中になったらいいなぁと、日々いろんな枠の中で生活しております。

いろんな枠はありますが、水槽の中にでも湧き出す泉を作ってみましょうか。
そんなことを考えて行動していきます。



2013年9月25日水曜日

すきなまちにてをくわえてすてきなまちに

働き方を変えて、ちょうど1週間。

現在、アオーレ長岡の市民協働センターというところにいます。

全体が見えてきて、ようやく活動開始!というところでしょうか。

1週間で色んな人に会う機会があり、新しい門出で、いったい何してんの?という質問を多くいただき、全くその通りだなと思ったので、少し解説を。



まずは、私の活動のコンセプト。
これはいろんな所で言っているので、耳タコかもだけど、
「スキなまちに手(テ)を加えてステキなまちに」ということ。

若干の自己満感はにじみ出てるかもしれないですが、
それが幸せなんだから、何と言われようとそれでよい。


さてさて、それでは市民協働センターで私のお仕事について。


まず、そもそも市民協働ってなんだ?と言われると、辞書的にはこう。

【「異種・異質の組織」が、「共通の社会的な目的」を果たすために、「それぞれのリソース(資源や特性)」を持ち寄り、「対等の立場」で「協力して共に働く」~日本NPOセンター~】

なんだか難しい言い方ですが、言い換えるとこう。

「大切にしたいものが同じとき、人と人は化学反応を起こす。組織の垣根を外して手を取り合い
 お互いに尊重し合いながら、大切なものを守る最善の策を進めていきましょう!」
ということ。

「組織」っていうのは、行政や企業、市民活動団体やNPO、学校や地域などなど。

これらにとって、垣根って絶対存在してると思うんですよね。
それぞれ立場が違うから。

企業を「営利を目的とした~」なんて表現しているうちは協働なんて絶対に成り立たないわけですよね。笑

それぞれに社会的目的はあるし、「富の創造と分配」と「豊かさの公平性」が必要なのが経済ですから、役割分担して、きちんと回ってるんだと思います。

その、役割が違うけど社会的目的が違う組織同士が、得意分野を持ち寄って最善策で豊かさを追求しましょう!というものです。

まぁ、わかるようなわからないような。。
市民協働の意味についてはこんなところです。


意味の説明では本題ではないので、ここから本題です。

そうはいっても協働を推進するだけで上手くいかないことがある。
なんでかっていうと、協働は手段だから。
その手段を提示するだけでは何も変わらない。


じゃあ目的は?
目的を提示したところで、人から言われた目的なんて、って感じがしません?


もっと大切なことがあると考えています。

長岡ならではの「米百俵の精神」に、こんな一節があります。

【まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある】

そう、ことごとく人にあるんです。

組織が動くのも人だし、大切にしたいと思うのも人。
協力するのも人だし、最善を尽くすのも人です。

先人は、これを教育にあてました。

現代の場合は何が適しているでしょう。
私は、何かのために行動できる風土づくりと考えます。


だから、幸せなまちのステップはこうかな?と。

①みんながまちをスキになる。
②スキなまちが、ステキなまちになってほしいと願う。
③ステキなまちにするために、自分にできることはないかと考える。
④スキなまちのために行動する喜びを知る
⑤スキなまちに手を加えてステキなまちになりつづける。

これを、今の私の業務に当てはめると、
普段以下のようなことを考えて試行錯誤しています。

①まちを好きになるにはどうしたらいいか。
②みんなが想うステキなまちってどんなまちか。
③行動したいと思った時に、行動できる体制は整っているか。
④続けたいと思う行動を、継続させるにはどうしたらいいか。
⑤より多くの人がその思いで行動し、地域性として次世代まで残るにはどうしたらよいか。

つまり、日々試行錯誤しながら迷子中っていうことですね。

企業の人も、NPOや市民団体の人も、一般市民の人も、行政の人も。
上記に当てはまるステップかなと思ったら相談しに来てください。


解決策をもってるかどうかわかりませんが、前には進めますよ、きっと!

知り合いのキンちゃんという方の名刺にはこう刻まれています。
(文昭さん、言葉お借りします)

「動けば変わる!止まれば太る!」



$atsのブログ

2013年7月21日日曜日

日常選挙(おサイフ投票権)

明日はいよいよ参議院選挙ですね。

次は2016年となると考えると、とても重要な選挙。

細かいことをいって偏ると悪いので、まずはひとりひとりが投票しよう。


ブログはまた何カ月ぶり?ですが、
大切な時期なのでちょっと綴ってみます。


私、根っからの性善説派なので、こう、悪い政党があるとか、ぐへへって言っている人がいるとかって、あまり続いて行かないもんだと思ってます。

だから、みんな正義を掲げています。
それは真実なんだと思いますよ。

でも、そのゴール地点がちがうだけ。

いろんな人が言ってますが、正義ってのは人それぞれであったり、環境や立場によって全然違うものになるんですよね。
でも正気ってのは大事だと思います。

犯しちゃいけない人間性というか、「正気で行こうよ」っていう感じです。


あと、「誰に託したいか」っていう意味での投票じゃなくて、「誰と一緒に歩いていきたいか」ていう投票の方が、正しい気がしますね。

選挙に出てる人だけが動く人で、私たちは動く人を選ぶ人?ってのはちょっとおかしい。
一緒に同じ方向にあるいてくれる人は誰かなぁという意味で投票したいものです。


さて、今日書きたかったのはこういうことではなく、(みんな選挙に行こうということはもちろん書きたかった事だけど)投票した後のお話。

今回の投票が終わると、またずっと選挙がないですよね。

じゃあ、その間は選ばれた人たちが頑張って動いてるのを、また応援したり評価したり、そんな感じでしょうか?

いえいえ、社会は政治だけでは動いていません。

むしろ政治以外の部分で動いている事の方が大きいです。

それは何か。

社会は、人の選択の積み重ねによって動いていると思っています。


選挙だけが選択の時じゃないですよね?(いや重要な選択の時だけど)

そう、日々おこなっている消費も、社会を大きく動かしています。


「消費が社会を変える」って、結構本気で思っています。

買い物を、ただ「消費」と捉えるとわかりづらいですが、これも「投票」だと捉えてみるとどうでしょう。(応援でも可)

自分が大切にしたいものを共有できる商品に投票する。
これがすなわち社会を変える消費です。と思います。

少し昔の消費と言えば、自分にとってどう価値があるのか?とか、今これが自分に必要か、とか、欲求とか、そんな感じで買っていました。

例えば、顔の見える野菜を買う、みたいな事はあると思います。
それは安心安全な野菜を食べたいから。
その一歩先に、この人は、この土地でずっと食べものが採れるように土と種を大切にしている、という農家さんに、「自分の子どもの代まで新鮮な野菜が食べられますように」という投票をします。こういう消費も悪くないかなぁと思っています。

もうある程度モノができあがった現在、将来に向けた選択をして、消費(投票)をしていくことが必要かなと思っています。

まぁ、我が家も完全に当てはまりますが、そうは言っても、きれい事だけで消費していけないという事情は十分にあります。

だから、毎日しなくていい。

だけど、頭の中には置いとくべき。

ということで、月に一度や週に一度、「消費投票をする日」を、各家庭で設けてみてもいいのかなと。

子「わくわく、もうすぐ消費投票日だね」
親「そうだな、今度はどんな思いで商品を作ってる人に投票しようか」
子「こないだテレビで、農薬でいっぱい人が死んじゃってるっていう綿の畑があるっての見たよ」
親「そうか、じゃあ家族みんなで使えるようにプレオーガニックコットンのおっきいタオルを買おうか」
子「それを買うとどうなるの?」
親「これはね。以下説明省略」

こんな会話が生まれてくる社会って、素敵じゃないですか?

みんなが社会の事を考えるには、わざわざ参議院や衆議院の選挙を待つ必要もなく、各家庭での意識でできることかなと思うのです。

それには、当然いろいろな事実を知る必要もあるだろうし、関心を高めていく必要もあると思いますが、それは、「常に」なんです。

「消費が変われば社会が変わる」

今は、ちょっとだけ「経済」というものが膨れ上がり過ぎて盲目になっているだけで、本当に大切にしたいものを考えた時、ひとりひとりの選択から、世の中に変化をもたらす事も出来るんです。

こんなことを書くと、いつでも選択できるなら、選挙は、、という風になるかもしれませんが、決してそれは違います。

政党や政策がわからないから、今回はやめておこうかなと思って選挙にいかない人。
自分の選択を放棄する事ですから、今後も放棄し続けてダメな社会をつくる要因の一つになります。
ひとりひとりが選択をしないと、人間弱いもので、目の前の利点だけで社会がつくられてしまいます。
そんな社会が継続して素敵な人生を送れる社会とは思えませんので、わからないなりでもいいので選択するという行動を示してみてください。

そしてまた、レジにて投票しましょう☆
財布の中に、投票権は入っていますから(^^)


2013年4月19日金曜日

いろんな活動を通じて目指すべき姿

お久しぶりです。
なんと、気がつけば1年ぶりのブログ更新!

存在すら忘れていたくらいだけど、
ちょっと想う事があったので書き留めたいと思う。

最近、会社でも子育て支援事業をまかせてもらっていながら、
いろいろな市民活動を実施できていて、
死にそうながらも、いわゆる充実した日々を送っている。


そもそも、それって何のためにやってんの?とか、
金になる活動なの?とか、いろいろ言われることもありますが、
いちいち答えてるのも面倒なので、ちょっと書きます。


私、実は我欲の強い人間でして。。
我欲がすべてを支配していました、はい。

俺ってこういう男で、こうあるべきで、こう見られていたい。
それから外れるのはNGでしょ?
ちょっと良いポジションにいたいな、とか。
そんな若者だったし、そんな人生を送っていた。

それはそれで楽しかったし、否定するつもりもない。
その時代の自分も、私を形成するひとつの財産です。

生活を変えるとか、環境が変わるとか、職場が変わるとか、
そんな変化では、私の考えの柱を一つも変えなかった。

考え方や自分の型って、意外と変わらないなぁと
つくづく感じます。
でも、今はだいぶ変わった考え方になり、
これがいいのか悪いのかわかりませんが、自分なりに納得いく自分になってきています。

ここで
私の考えを変化した出来事、ベスト3を発表しようと思います。

1位 子どもを授かった事(2009年)
2位 マラソン大会途中で意識不明で救急車、一時的な記憶障害(2010年)
3位 東日本大震災(2011年)

この3つですね。
あとは、いっぱいあり過ぎてかけないけど、
いろんな人との出会いが、かなり自分を変えてくれましたが、
人との出会いも、そもそも考えが変わってなければ変わらなかったでしょうね。

子どもを授かった衝撃はすごかったですね。
これまで今日明日のことしか考えていなかったのに、
子どもの将来のこと、
子どもがまた親になる時のこと
守るべきもの。
一気にいろんなことを考えるようになり、
もちろん育児が始まった事もあるけど、すぐにいろいろ環境を変えた。
ここで、
「俺はこうあるべきだ」
から
「子どもの周りの環境は20年後にこんななっていてほしいなぁ」
みたいな感覚にかわって、少し自我が薄れたような気がします。


次に、意識不明になった時。
結局全然大した事なくて、大げさに騒ぎすぎたと笑い話になっていますが、
このときは、記憶もあいまいになったし、このままだと「死」!?みたいな感じで、
初めてのことに一晩でいろいろな事を考えた。

正直、私は死なないだろうと思っていたし、
(死ぬほどの話では全然なかったけど。。。)
死ぬとしたら、何ができてなくて、家族に何を伝えきれてないだろうとか、
いろいろと思い巡らせて、即行動の大切さをしったというか、そんな出来事だった。


最後の震災は、もうすごく衝撃的で、
今も苦しんでいる方々を想うと、軽々しくかけないのですが、
これまで自分の中にあった「型」って、
とても勝手につけていた「型」だなぁと感じたというか、
こうでなくちゃいけない、こうあるべきだみたいな価値観って、
とらわれすぎていても、あっという間に覆ってしまって
そんな価値観の中で、誰が悪いとか責任の所在はとかっていってることが
どの価値観で今そんな事が言えるんだろうとか、
ちょっと「型」というものを客観的に見るようになった。

家族との時間も大切にするようになったし、
他の自分が大切にする事もはっきりと見えてきた。


こんな感じで、自分自身の考え方が変わってきて、
今は暴走に近い走り方ながらも、とても充実してきている。

現在、「おこさまランチ革命」という取り組みを本格スタートしたばかり。
この取り組みは、いろんな人にきっかけとか、展望とか聞かれるけど、
そんなに大それた野望があるわけでも何でもない。

もちろん、子どもの健康や食の安全、医療費の問題や
農産物の問題などあるけど、素直に思うのはもっとシンプル。

私が親になった時に考え方が変わったのと同様に、
子どもが親になるときも、子どもは考え方が変わるだろうなぁと
ぼんやりと思ってる。

だから、子どもが親になる30年後くらいに、どんな環境が作れてるのかって。

その環境のキーワードは「豊か」

どんな状態かっていうと、
この地で生まれた事を誇りに思える環境で、
雪国であるがゆえに、
助け合い、譲り合い、触れ合いながら生きていくことを自然と身に付け、
「おかげさま」で生きているということを深く認識し、
食に対しても、人に対しても、感謝の気持ちを持てる豊かさ。

こんな文化を持つ人たちがいる町で
私の30年後でもいいので親になり、同じ心境の変化を感じ、
このまちで子を育てる幸せやさらに30年後を考える豊かさを
同じように持ってほしいなと言うのが、

私のわがまま。

この町がすきだから、30年後のこのまちも好きでいたいし、同じ気持ちを共有したい。


スキな町に、テを加えてステキな町に。

そんな思いで、いろいろ取り組んでいます。
これからも暴走野郎ですがよろしくお願いします。